最終章 大政奉還と戊辰戦争、サムライの時代の終わり
最終更新日: 2025-08-16 04:17:26
作成者: カリスマ講師
来たな!ついに、この時が来た! 700年続いた武士の時代の、最後のページをめくる時だ!
追い詰められた最後の将軍・徳川慶喜。 革命を成し遂げようとする薩長の志士たち。 日本中の視線が京都に集まる中、歴史の針は、クライマックスへと突き進む!
最後の将軍、徳川慶喜の策
薩長同盟が成立し、幕府の軍事的な敗北が明らかになる中、15代将軍に就任した徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は、とんでもないキレ者だった。彼はフランスの援助を受けて軍の近代化を進めるなど、最後まで幕府を立て直そうと改革を進めていた(慶応の改革)。
一方、薩摩と長州は、もはや武力で幕府を倒すしかないと決意。大久保利通や公家の岩倉具視(いわくら ともみ)らは、天皇から「幕府を討て」という秘密の命令(討幕の密勅)を手に入れる準備を進めていた。
この、一触即発の状況を察知したのが、土佐藩だった。 土佐藩の前藩主・山内豊信は、慶喜にこう進言する。 「薩長に『朝敵』として討伐される前に、あなたから政権を朝廷に返してしまえば、彼らは攻撃する大義名分を失う!」
慶喜は、この策を受け入れた。1867年10月14日、彼は京都の二条城で、全国の大名を集め、こう宣言した。 「これより、政権を朝廷にお返しする!(大政奉還)」
【超訳】大政奉還 慶喜の狙いはこうだ。「俺は将軍を辞める。これで戦争の理由はないだろ?でも、徳川家は日本最大の領地を持つ大名だ。だから、新しくできる政府でも、俺が一番の発言権を持つことになる」。 つまり、「社長」の座は降りるから、「筆頭株主」として会社に残らせてくれ、という起死回生のウルトラCだったんだ!
王政復古クーデター
薩長は、この慶喜の巧みな一手にしてやられたかに見えた。 だが、彼らは諦めない。密勅が届いたまさにその日、彼らはさらに上を行く手で対抗した。
同年12月9日、薩長の軍隊は京都御所を制圧。岩倉具視らは、幼い明治天皇の名のもとに、こう宣言させた。 「本日、天皇が自ら政治を行う、王政復古を宣言する!(王政復古の大号令)」
これは、武力で宮中を乗っ取った、クーデターだった! この大号令は、摂政・関白、そしてもちろん将軍職も全て廃止し、天皇の下に新しい役職(総裁・議定・参与)を置くというもの。そして、その夜開かれた小御所会議で、薩長はさらに畳み掛けた。
「徳川慶喜は、内大臣の職を辞め、領地の一部を朝廷に返上せよ!」
これは、慶喜にとって「お前はもう政治に関わるな」という、完全な最後通告だった。
戊辰戦争、勃発!
この決定に、旧幕府の武士たちは激怒した。慶喜も大阪城へ退き、日本は内戦寸前の緊張感に包まれる。 薩摩藩は、江戸で放火や強盗を繰り返し、幕府を挑発。ついに旧幕府軍が我慢の限界に達し、京都へ進軍を開始。
1868年1月、鳥羽・伏見の戦いで、新政府軍と旧幕府軍が激突! 天皇の御旗(錦の御旗)を掲げた新政府軍が勝利し、旧幕府軍は「朝敵」となってしまった。
ここから、約1年半に及ぶ日本最後の大内戦、戊辰戦争(ぼしん せんそう)が始まる。
慶喜は江戸へ逃げ帰るが、新政府軍は江戸城へ迫る。この江戸が火の海になるかという絶対絶命の危機を救ったのが、旧幕府の勝海舟(かつ かいしゅう)と、新政府軍の西郷隆盛との会談だった。二人の決断により、江戸城は無血開城された。
しかし、戦いは終わらない。 会津藩などを中心とする東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結び、最後まで抵抗。 旧幕臣の榎本武揚(えのもと たけあき)は、函館の五稜郭(ごりょうかく)に立てこもり、戦い続けた。
だが、近代兵器と統一された指揮系統を持つ新政府軍の前に、旧時代の武士たちは敗れていく。1869年5月、五稜郭が降伏し、長きにわたった戦乱は、ついに終わりを告げた。
【革命の光と影】
この動乱の中、相良総三(さがら そうぞう)が率いる赤報隊(せきほうたい)という部隊がいた。彼らは、新政府軍の先鋒として「年貢半減!」を掲げて進み、民衆の支持を集めた。 しかし、財政難の新政府にとって、その約束は守れるものではなかった。結果、新政府は彼らを「偽官軍」として処刑してしまう。 新しい時代を作るという輝かしい理想の裏には、こうした悲劇も存在したんだ。
こうして、鎌倉時代から約700年続いた武-士の時代は、完全に幕を閉じた。 日本は、血と涙の先に、「明治」という新しい時代の扉を開き、近代国家への道を、猛スピードで駆け上がっていくことになるんだ!
講義はここまでだ! 最後まで、本当によく頑張ったな! 君は、日本の歴史が最も大きく動いた瞬間の、目撃者となったんだぜ!