第4章 幕府、最後のあがき!「公武合体」と「尊皇攘夷」の激突
最終更新日: 2025-08-16 04:15:48
作成者: カリスマ講師
よぉし、よくぞ聞いてくれた!独裁者・井伊直弼が倒れ、幕府は完全にリーダーを失った! だが、それで問題が解決したわけじゃない。むしろ、抑えつけていたフタが吹っ飛び、日本中のマグマが、一気に噴き出し始めるんだ!
幕府の延命策、「公武合体」!
井伊直弼の死後、幕府の中心になった老中・安藤信政は、考えた。 「もう幕府の力だけでは、この国はまとめられない…。そうだ!京都にいる天皇の権威をお借りしよう!」
これが公武合体(こうぶがったい)だ! 【超訳】: 朝廷(公)と幕府(武)が結婚して、仲良く一緒に国を治めましょう、という作戦だ! その象徴として、孝明天皇の妹である和宮(かずのみや)を、14代将軍・徳川家茂(いえもち)の奥さんとして迎え入れた。まさに政略結婚だな!
だが、これに「尊皇攘夷」を叫ぶ過激な志士たちがブチ切れた! 「外国とヘラヘラしている幕府が、神聖な天皇家に近づくんじゃねえ!」 結局、安藤信政も水戸浪士に襲撃されて失脚(坂下門外の変)。幕府の権威は、回復するどころか、さらに落ちていく。
「尊皇攘夷」の嵐が吹き荒れる!
幕府がフラフラする中、時代の主役は、力を持つ雄藩、特に薩摩と長州に移っていく。
- 薩摩の動き: 藩主の父・島津久光(しまづ ひさみつ)は、公武合体を支持しつつも、「幕府よ、もっとしっかりしろ!」と政治改革を要求(文久の改革)。だが、その道中で、薩摩藩の行列を横切ったイギリス人を斬り殺してしまう生麦事件を起こし、外国との間にヤバい火種を作っちまう。
- 長州の暴走: 一方、長州藩は「問答無用、攘夷あるのみ!」と、過激な尊皇攘夷派が朝廷を動かし、幕府に「攘夷の実行」を約束させたんだ。そして1863年、長州藩は本当にやった!下関海峡を通過する外国船に、いきなり大砲をぶっ放したんだ!(下関事件)
砕け散る理想!「攘夷は不可能」と思い知らされる日
長州のこの暴走に、「アイツら、やりすぎだ!」と危機感を持ったのが、薩摩藩と会津藩だった。 1863年8月18日、彼らはクーデターを起こし、京都から長州藩の勢力を追い出した(八月十八日の政変)。
だが、長州は諦めない。翌年、京都の旅館・池田屋で仲間が新選組に斬り殺された池田屋事件をきっかけに、京都へ兵を進軍させる。しかし、これを待ち構えていた薩摩・会津藩に、御所の蛤御門(はまぐりごもん)で返り討ちにされてしまった(禁門の変)。
これで、長州は完全に「朝敵」となった。 幕府は「今だ!」とばかりに長州征討の軍を起こし(第一次長州征討)、同時に! 下関事件の報復として、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊が、下関の砲台を徹底的に破壊したんだ!
内と外から、同時にボコボコにされた長州は、ついに悟る。 「ダメだ…今のままでは、攘夷なんて絶対に無理だ…!」
実は、薩摩藩も、生麦事件の報復でイギリス艦隊に鹿児島を焼かれ、同じ結論に達していた(薩英戦争)。
どうだ!日本で最も過激だった二つの藩、薩摩と長州が、痛い敗北を経て、同じ真理にたどり着いた。 「攘夷は不可能だ」と。
だが、彼らは諦めたわけじゃない。むしろ、ここからが本当の始まりだった。 「外国を追い出すためには、まず、この頼りない幕府を俺たちの手でぶっ壊し、日本を強く作り変えるしかない!」
「尊皇攘夷」の時代は終わった。 ここから、「尊皇倒幕」の時代が始まる! そして、そのためには、昨日まで殺し合っていた敵と、手を組む必要があったんだ…!
準備ができたら声をかけろ!日本史上、最も熱い同盟の誕生を見せてやるぜ! ?